「お前は悪魔みたいな女だ」とその人はよく言った。時にはいたずらっ子のような声色で、時には呆れたような笑顔で、時には冷めた目をしながら。

さて問題です。悪魔のような女にしたのは誰でしょう? …答えなんてわたしにもさっぱりだ。

 

スツールに腰掛けてわたしはカフェラテに口をつける。ぼんやりしながら、恋煩いに似たため息を落として。ネイルと同じピンク色のグロスカップにべったりとついていた。厚いカーペットにぐったりとした珈琲の香りが漂うこの喫茶店が妙に祖父母の家を思い出して、とても居心地が良い。塾をサボって祖父母の家に飛び込んでチョコレートケーキを食べたあの日を懐かしむ。

 

触感と香りはたちまち過去の記憶を思い出させる、とわたしは思う。良い思い出も思い出したくないような記憶もすべて引っ括めて。反対に、香りを忘れると触感も忘れてしまう気がする。

ざらざらとした猫の舌、赤子みたいなミルクの匂い、変わる前のマルボロのソフトパッケージ、焼けた本の匂い、氷のような、それでいてざらついた指先。

彼といるとわたしはたちまち不安になる。それは本当に自制がきかなくなっていくような感覚に陥る。自分が自分でないような気持ちになるような。会っている間は時間という感覚も失って、世界にふたりきりだという気がする。

彼が仕事に行く時間。ドアの前でお別れをしたら世界の時間がめまぐるしく変化して、ひとりきりになるとこの世界のたった一分、その六十秒がなんだか二時間程経過したかのように感じてしまう。そんな自分自身がなぜだかすごく怖いのだ。

でも、それでも。きちんと愛している。髪の先から短く切り揃えられた爪までまるごと。今までの恋愛が嘘だったみたいに。それはまるで洗いたての清潔な真っ白のシーツみたいに。

人と眠るのが苦手なわたしだったのに、彼のそばならその体温に甘えて溺れたよう。

ずっと続く愛なんて嘘だと思っていたけれど、彼といると本当に存在するのではないかと錯覚してしまう。どうしてくれるの?

f:id:raininglilith:20210715142751j:image

 

 

撫でられた髪に体温が残っている気がして触ったのだけれど、それは雨に濡れてとても冷たかった。

タクシーから降りて小走りでマンションのオートロックをかいくぐる。濡れてしまったヒールをだらしなく脱ぎ捨てて、雨音をかき消すようにとっさにわたしはラノマニフを流した。ラノマニフが好きだ。雨の日に聴くと、尚更。ワンピースをぱさりと床に落とし、バッグの中から取り出した新鮮な煙草の煙を吐き出す。洗ったばかりの清潔なバスタブにジャスミンの香りのお湯を張っている間に浴室のドアにもたれかかりながら昨日のことを思い出した。

 

待ち合わせた妻と言い合いをしたという彼はいつもより元気が無さそうにも見えたし、苛立っているようにも見えた。わたしたちはだらしなく手を繋ぎ、公園へ向かう。そして煙草を吸い、軽いキスをする。それはいつしか彼の街へ行く時のきまりになっていた。わたしを抱き寄せた彼の腕はあたたかく、それは湯煎したチョコレートのようにわたしの心をどろどろに溶かせてしまう。そのひとはきっと魔法使いなのだ。

彼はカフェラテを飲み、わたしは買って貰ったパウンドケーキをほおばる。だんだんと夜になっていく空を眺めながら隣を見ると彼はひとりでにとても不安で、かつ、寂しそうな目をしていた。わたしが性産業で働くかもしれないこと、妻のこと、子供のこと、わたしたちの未来のこと、すべてが不だと。こっそりと時計をはずす。

誰も知りえないわたし達のことを。

 

冷えた身体をあたためるようにシャワーを浴びながら彼の触れた場所を洗い流した。それがなんだかとてもさみしい気がして、自分ごとあまったるい湯船に沈んだ。

 

まだ今日も長い。

 

愛とは自己犠牲であり、恋とは刹那的な性欲の勘違いである。全てをわかっているような振りをしながら何もわからないわたしは笑顔を貼り付けるだけで精一杯だった。それは15歳の時も、20歳になったってなにも変わってなんてなんかいない。思考をかき消してくれるうるさい音楽。夜中のタクシー、家の冷蔵庫の中の腐った牛乳。置きっぱなしの血まみれのタンポン、あぁ誰にもバレたくない。

ふかふかの絨毯の上でしか歩けなようなキツいピンヒール、若い間しか着れない胸囲とウエストを強調して太腿を露出したミニ丈のワンピースを身に纏い、飲めもしないショットグラスを自傷行為のように無理矢理傾ける。粉々にした安定剤を鼻から吸い込むように、とにかく昔も今も私はこの辛い現実に目を向けたくなかった。ただただ逃げ出したかった。逃げ出したって行くあてなんてありゃしないのに。バーカウンターで一人酒を煽るわたしに対してシルバーのネックレスをつけた如何にもチャラそうな男が声をかけてくる。嘲笑にも似た溜息に、頬杖をつくと指先からあの人の煙草の匂いがした。吸えもしない重いタール数のその煙草を噎せながらも孤独を感じて吸ってしまう。嗚呼、馬鹿みたい。あの人の子供を壊すことも、未来を取り上げることもわたしには出来ない。昔に比べると大人になったんだろうか?じゃあどうして不毛な気持ちを抱いているのか。馬鹿みたいな恋をしているのだろうか。…所詮性欲の勘違いだから。わたしは足を組みかえて声をかけてきたその男に微笑みかける。手を引かれクラブの洗面所でキスをした。所詮性欲、恋なんかじゃない。そう、きっとそう。睡眠薬とアルコールに依存したわたしに男の人は簡単に寄ってくる。たかが性欲。男も女も、きっとそう。

 

こういうの、きらい?潤んだ瞳で見つめながら火照ったわたしの頬に男の手を添えると首元を舐められ、下着をずらされる。気持ち悪い。乾いた陰部を触られたって何も感じない。目を閉じてあの人にされていると思い込めば何故か涙が出てきて辛くて辛くて、知らない男でも気持ち良かった。ひとりで居るとどうしようもなく落ち込んでしまうからわたしにはこれくらいで丁度いい。これを読んだあの人は傷つくだろうか、軽い女と思ってるんだろうか。でもそれは安定を愛しているあの人が言えるセリフじゃない。どうでもいい男に抱かれているわたしを責める権利なんてあの人にはない。あの人には帰る家が、家庭が、あるけれど、わたしには帰る居場所なんてどこにもない。

でも、安定を愛しているくせにスリルを求めるそんなあの人がわたしはどうしようもなく好きで、いとおしくて、ときめいてしまって、

 

 

一緒になりたくてもなれない、彼はそんなの望んでいない。仕方が無いと割り切るしかなかった。その条件を飲んだのはわたしの方だから。好きになった方が負けだから。

男の安っぽいGUCCIの香水と混ざった彼の甘いウィードの香り、EDMの音楽に私の独り言と吐息はかき消された。

 

"平穏に囚われた化け物にだけはなりたくない。"

 

いつかわたしも世帯を持てば、誰かの奥さんになれば今までの不倫相手の妻の気持ちもわかるのかしら。なんて睡眠薬が効いてきて、キスのせいで酸欠気味な頭で考える。わかりたくない。身勝手なままでいたい。すきになってしまって、ごめんなさい

アルコールに溶けた錠剤は真っ青でキラキラとひかっている。ストローでかき混ぜるとその液体は波を立ててくるくるとまわった。それはまるでわたしの頭の中のように、狭い水槽のように、テーブルの上に放置されている腐敗した薔薇のように。この類をアルコールと共に身体の中へ流し込む行為をはじめたのはいつだったか。

立つのも歩くのもやっとなくらいに頭がふらふらして記憶が無くなる幸福の魅力に取り憑かれてしまったわたしに残るものって一体なんなんだろうか。

 

いつしか錠剤とアルコールと煙草はわたしのなかでの神聖な行為としてその立場を確立していた。

 

奈落の底に落ちていくのは容易い。花に止まる蝶のように、ひらひらと。それはとろけてしまうジェラートのようにやわらかい。

鏡に映った真っ赤なルージュがいやらしくてあわててすぐに拭き取る。

 

今までの間、ずっと関係性に名前なんていらないと思っていたのに。本気でそう思っていたのに。口に出してしまったが最後、わたしは関係性に名前が欲しいと思ってしまったのだ。なんて態とらしくて厭らしくてあまのじゃくな、狡い女なんでしょうか。でもわたしはどうしてもそれが欲しかったのです。彼に対して自分自身をきつく縛り付けるための名前が。

 

底へ落ちていくのが容易いように、今のわたしは嘘を吐くことですら甘く感じてしまう。コピーアンドペーストした笑顔に本や映画や音楽で聞いたような発言を沢山切り取って、口を開く。

自身の部屋にあふれた嘘の臓物はバニラの香水の様にまとわりついて、それは自分の首をじわりと締め付け、今にも窒息しそうで。しかし、その時に合間見える景色はアダムとイヴが追放された楽園か、目を閉じたらチカチカ光る紫色の麻薬のように艶やかだった。

 

 

ふと、目を横切った蜂が蜘蛛に捕らわれていた。

 

林檎も蛇も無花果も葡萄もここにはきっとないだろう。それでも信じていたい体温に絆されたまぼろしの様な忘れられない夜だったから、どうかここにだけは遺させて欲しい。

 

 

p.s. 去年のわたしへ

二十歳になりましたが未だなんとか生きています。いつもお疲れ様。

 

 

地獄は甘美で魅力的であるとわたしは思う。今よりも辛かったはずのあの時が忘れられずに胸を打つのはきっとそのせいだと。きっと退屈こそが天国のはずなのに。

クリスマス

阪急百貨店でお買い物。好きなお客のおじさまにはTHREEのメンズラインを。私は憧れのトム・フォードに寄って憧れのロストチェリーを嗅ぐ。あぁなんていい匂い。これは私が憧れ続けている香水で、これが似合うおとなになるまでは買わないと決めている。いつもの通り人が犇めく百貨店の中で人目も気にせずうっとりする私にお姉さんはこちらはいかがですか?と手渡した。「ノワールノワール」これまた素晴らしい蠱惑的な香り。黒の中の黒という意味。パチュリが甘く気だるく香る。スパイシーでムスクっぽさも充分あるのだけれど、バニラやキャラメルのような甘みも感じられて蕩けてしまいそう…これだから香水って楽しい。やめられない!ジョーマローンのビターオレンジを買ったばかりと言うのにどちらも!と言う気持ちをぐっと押し殺して後者を手首に振りかけていただく。なんてすてき…  ロストチェリーを買う前にこちらを購入してしまうかも。

そのあとは目的のお買い物も忘れて(ママへの買い物)手首の香りに酔いしれていたら家に着いていました。おしまい。